星たちは雨のように、音もなく、降り続ける



スターとレイン、君の声



 世界は目まぐるしく回るものだ。
朝起きれば、どこかで殺人が起きたなどというニュースが流れる。
そんなことも露知らず電車はいつも通りに走り続け、昼には猫も飯を食う。
交差点の人々に押されるままに、気が付けば夕方がやってくる。
どこかの火事が収まった頃に、次の朝にはまた新しい日常的な殺人ニュースが放送される。
ため息を吐けば、次の瞬間には消えている。そんな世界だ。

 その次の瞬間を刻むように、瞬きした。また朝がやってくる。
そんな日々を飽きずに回る世界の中にいる僕らは、まるで滑車に乗ったネズミのようだ。





「おい!」

 後ろから肩を強く掴まれたその時に、僕はようやく彼の存在に気が付いた。
振り返る瞬間に、突然目眩がした。
彼は咄嗟に掴んだままの僕の右肩と、左肩を支え、僕が倒れるのを防ぐ。
覚束無い足を付いて、僕は何とか体勢を整えようとしたが、上手くいかなかった。
僕は彼に全体重を預ける形になり、一方の彼は不安定な支えを維持できなくなった。
それでも、彼は僕が地面に倒れこまないように僕の両肩を持ち上げて、ゆっくりと僕に膝を着かせて座らせた。
僕の両肩を持ったまま、一緒に彼も方膝を付く。
彼の心配そうな顔を余所に、僕の目眩は収まりそうにない。

「Hey, どうしたんだ。どこが悪いんだ?」

 片手を顔に当て俯いた僕の顔を、彼が覗きこむ。
告げたくもない病状を報告する前に、頭痛と強い動悸に襲われて、口が開けなくなった。
口から出るのは繰り返す深い吐息だけだ。
そのうちに、だんだんと息が苦しくなった。
息を吸っているはずなのに、酸素が肺に入ってこない。
心臓に手を当てると、張り裂けそうに鼓動する生々しい動きを感じる。吐き気がした。

 「しっかりしろ!」彼の声が、曖昧に僕の鼓膜に響いた。
重力すら曖昧になって、僕は自身の体を支えられなくなった。
彼の方へ倒れこむ。
彼の体の形と、声を、微かに感じた。





 僕の立つ場所に、星空が降ってくる。
閃光するそれはまるで、ダイヤモンドダストのようにきらきらと輝いて、雨のようにすっと地面へ降り注ぐ。
天の川にいるようだ。
けれど僕はどちらの陸にも上がれない。
どちらの場所にも行くことができない。
所詮は中途半端な存在だ。人間も同じだ。僕と同じだ。見て見ぬふりする。
そんなことにも気が付かない。

 流れ星は黙々と地面に落ちる。
そこには当然のように音などない。
しかし、僕にはそれが寂しく写った。
けれどそうせざるを得ない星たちは、哀歌を奏でるように、線をえがき、閃光を音符にして、そして消える。
足元は奏で損ねた音色でいっぱいだった。
しかし、そこには音などなかった。
音という存在すらも、し得なかった。





 瞬きすると、向こうに無地の板が見えた。
無機質な天井だ。
あの星空は夢だったのだと、この時ようやく気付く。
ほとんど思考できない頭で、ここはどこだ、とだけ口に伝えることができた。

「シャドウ、目が覚めたか。ここはオマエの部屋だ」

 彼の声が少し遠くで聞こえて、僕の意識が目覚め始める。
 ああ、ここは僕の部屋だ。
GUNが兵士に提供している部屋。僕にも与えられた。
僕には部屋の作り方が分からないから、僕の部屋には、既に支給されていたベッドと机と椅子と、
報告書を書くためのパソコンしか置いていない。
まるで生活感がない部屋だと、誰かに言われたことがあった。
興味ない、とだけ返した覚えがある。
今思えば、生活に服従されている僕らが、今更生活を我が物と謳歌するなんて馬鹿げた話だ。

 僕は、ベッドに寝かされていた。
ぼんやりした頭は体の信号を放り出し、僕の体はまるで置物のようだ。
 声の主は、あの時僕に声をかけた彼、ソニックだ。
彼が僕をここまで運んでくれたのだろう。
彼の声には、既に心配や驚きの音はない。
僕の体はどうやら大丈夫なようだ。

「いきなり倒れるからびっくりしたんだぜ。ずいぶん疲れていたんじゃないか?」

 ソニックはそう言いながら、椅子をベッドのそばに置いてそこに座った。
僅かに顔を動かせば、彼の青と、緑色の彼の瞳が見える。
彼は、やれやれというように眉を寝かせて、しかし優しさを灯した目で僕を見ていた。
 僕は鋭い目で、彼を見た。
彼は僕を少し見くびっているのではないかと、何故か怒りすら感じた。
 そう、疲れなどあろうはずがない。疲労など15分も寝れば、身体中から全て抜ける。
例え腹を貫かれようと、3日もあれば、まるで何事もなかったかのように全て再生する。
僕は究極生命体だ。そういう身体になっている。

「…よけいな、世話だ」

 上体を起こした。
いつもなら睡眠後回復するはずの体の重さを、ずっしりと感じる。
何故だ、おかしい―その途端に、あの時のような、地面がぐるりと反対になったような目眩を感じて、僕は思わず頭をおさえた。
目を閉じても、暗闇の中がぐらぐらする。
「バカ、寝てろ!」半ば怒りながら、ソニックは僕を無理矢理ベッドに押し付けた。

 こんなことは初めてだった。
どうしたことだろうか。
僕の記憶に、この体調不良の原因を探すが、何度思い起こしてもそれらしいものは見当たらない。
持続性の不調に耐性がないからか、酷く具合が悪いように感じる。
肺に溜まった不調を吐き出すように、深く息をついた。

 その様子を、ソニックはじっと見ていた。
視線には気が付いていた。
先ほどの優しげな目は一変して、それは刺さるような、焼き付くような視線になっていた。
心の奥深くまで探られるようだ。
だから僕は、彼の視線に気付いていても、迂闊に口を開きたくなかった。
だが彼のことだ。そのうちに彼から言の葉を伸ばす。

「…まだ目眩はするか。どこが悪い」

 彼の声にいつもの明るさは無く、トーンが低いものだったが、やはり僕の予想通りだ。
しかし彼が伸ばしたのは、話の切り端だけではない―僕の予想していないことに―彼は手を伸ばして、
布団の中に隠れていた僕の手を取り、彼の両手で包み込んだ。
僕は少し驚きの色を混ぜて、その様子を見た。
僕のリングの弾く輝きは、いつもよりも鈍っている。
自然治癒力を高める為に、リミッターは普段より僕の力を抑える効果を弱めているのだろう。
 そして、彼の手は暖かかった。
逆を言えば、僕の手は、まるで死人のように酷く冷えきっていたのだった。

「倒れるまで、オマエはどこに行ってたんだ」

 彼の声のトーンは、また平坦になっていた。
やっと目眩のなくなった景色で、彼の顔を見れば、そこには色がない。
無表情だ。
しかし瞳のその奥は燃えるようにチリチリとした熱いものがある。
その彼の目線は一点に、僕の手に集中していた。
穴が開くほど、真剣に見つめている。そこには声がない。
 彼の問いに僕は答えないまま、しばらく沈黙が続いた。
ようやく空気を揺らしたのは、彼だ。
彼は僕の手をぎゅっと握り、上へ掲げて、僕に見せるようにしたのだ。
彼の握る力は強く、まだはっきりしない意識でも、ジリジリと痛みが伝わるほどだった。


「これは何だ」

 彼の声が、低くはっきりと響いた。
初めて彼の音に、隠れていた怒りが混じる。
 僕は、彼に上げられた僕の手を見た。
手首の赤と黒の飾りに少し隠れたところから、腕の間接まで、一筋の線が見えた。
赤黒い線。
塞がりかけているが、それは傷だった。
数時間かけても完全に消えていないことが、それの傷の深さを物語っていた。

 ここでやっと、僕は体調不良の正体に気が付いた。
出血多量による、酷い貧血だ。
立ち眩み、目眩、頭痛、動悸、全てがこれの症状に当てはまる。
今でも目眩が伴うということは、まだ血液が足りていないのか。相当血を失ったようだ。

 ああ、そうだった―― 僕は先ほどまで見当たらなかった記憶にアクセスした。
確かに怪我をした、勿論痛みもあった。
気付かなかったわけではない。気付いていたのにも関わらず、僕はそれを放置していたのだった。

 そして彼が突然、悲しげに言い放った。


「自虐的に、なっていたんじゃないのか」



 心臓を突き刺すような衝撃を受けた。
あまりの衝撃に、僕は瞳に濃く驚きが混じるのを隠しきれなかった。
心臓の強い鼓動が収まらない。僕が知らない場所で、身体中が、その『図星』に恐れおののいていた。

 この傷は、勿論、僕がつけたものではない。
別に僕が僕自身を、いわゆるリストカットをしたわけではなかった。
しかし、僕の心臓は、それに近いものを感じていた。
偶然傷がついた。偶然、そこから血が出た。
たったそれだけの何でもないものに、僕はひそかに意味を感じていた。
わからない。
だが、僕の体の傷の痛みに、僕は、快感に近いものすら感じていたのだ。
 だから、血が流れるのも気にならなかった。
痛みがあるのを、血が流れているのを、むしろ良しとして、僕はそれを放置した。


 僕の心の中にとぐろを巻いた黒いものが、形になって流れてくれるような気がして。



 「そうかもしれないな」と、僕は何故かその時初めて、彼の問いに答えた。
彼は一時僕の顔を見て、それから握っていた僕の手を下ろし 再び先ほどのように両手で包んだ。
重い沈黙が続く。
彼は目線を横に逸らせて、考えるように、しばらく僕の手をふと握ったり、撫でたりしていた。
彼の目は、少し戸惑っていた。
同時に、申し訳なさそうな、悲しげな、まるで彼が全て悪いかのような顔をしていた。
何故彼がそんな表情をするのだろうか。彼は何も悪くない。

 「オマエはどこに行ってたんだ」と、彼は再び問うた。
彼の声に、既にあの爆発しそうな怒りはない。
代わりに、それは彼の今の表情と同じような色を宿していた。
彼は僕の身を、心を案じていた。
心から。
彼の気持ちは、耳から、頬から、その手から、身に染み込むように感じ取れた。


 僕は自然と話を繋いでいた。「GUNからの任務があった」。


 紛争に近い、激しい争いが勃発している地域があり、それを止めてこい、というような任務だった。
その任務は特別危険なものではなかったし、いつも僕に寄せられるものとそれほど変わるものではなかった。
 僕は朝方からそちらに飛んだ。
 僕の他にも兵士が多数集まっており、僕はその人たちと争いの仲介に入った。
極力、武力は使わないようにというGUNからの命令もあったが、
しかしそれ以前に、僕らが下手に武力という国力を振るえば、
それは争いを抑止するどころか、油に火を注ぐ事態になりかねないことは、既に承知していた。
だから、僕らはできるだけ武器を使わないよう努めた。
 しかし一方で、怒りで前が見えていない紛争の渦中にある人々は、
その手に銃やら棍棒やらを握らせて、目の前にいる人間を片っ端から攻撃していた。
そんな人々に囲まれていた僕らは、勿論、圧倒的に不利な状況に置かれていた。
しかし、それでも僕らは、生命の危機に立たされない限りは武器を使えない。
僕らは武力の代わりに盾やその類いで、彼らを、それこそ仲介する他に術がなかった。

 だが、そんな任務など、僕にとっても他の兵士にとっても、最早日常茶飯事だ。
そのうちに、事は丸く収まる。
人を殺してしまった人たちは捕らえられて警察署へ、怪我をしたものは病院に。
騒ぎが終息し、人の狂った声が無くなれば、任務は完了だ。
たったそれだけだ。


 そのようなことを一通り話して、僕は口を閉じた。
彼は黙って僕の話を聞いていた。
僕が話をやめても、彼は沈黙を守ったままだ。
まるで、僕に話を続けろとでもいうように。
だが、僕にはもう話すことはない。それだけだ。それ以外には何もない。

 彼がついにその固い口を開けて、「他には何かなかったのか」と尋ねた。

 僕は、上体を起こした。
もう目眩はない。失われていた血は生成されたようだ。
彼は少しだけ心配の色を顕にしたが、それも無駄な徒労だと気付いたようだ。
あの体調不良がまるで無かったかのように、体は随分と回復している。
 これが僕の体というものだ。
僕の脳は、血管は、心臓は、正常に、究極生命体として機能している。
どれだけ深い傷を負おうが、どれだけ内蔵を破壊されようが、僕の体には何の支障にもならない。
どれだけ、血を流そうとも。

 どれだけ死に近づいても、生きている。


「ひとが、死んだ」

 彼の質問に、僕は答えた。


 GUNの兵士に、一人、ある男がいた。
若い男だった。
彼は気さくで、明るく、誰にでも好かれるような性格だった。
 彼は僕にさえ親切を分け与えた。
奇異な目を向けられやすい僕に、一人のにんげんと接するように、平等を象徴する瞳で僕を見た。
僕には人間に対する興味はあまりないが、しかし僕にとって、彼という存在は少し驚きだった。
 任務前には、頼んでもいないのに、僕にガムというものをくれた(悪くない味だった)。
僕が怪我をすれば、誰よりも先に僕の安否を案じた。
 彼は親切を断る隙を作らせないのが特技のようだった。
お陰で、僕は彼に随分と借りを作らせてしまった。
それを返すために、僕は彼のお気に入りのガムを、何個か缶ごと彼にあげた。
任務中には、数回彼を助けた。
それでも、僕の手元には借りが貯まる一方だった。
嫌な気はしなかった。むしろ僕は、密やかに嬉しささえ感じていたかもしれない。
僕は、いつの間にか彼に心を許していたのだ。
 彼との付き合いは長くなりそうだった。
だから、そのうちに、全ての借りを返すつもりだった。

 そして彼は死んだ。瞬きの、たった一瞬だった。
血を流して死んだ。銃弾を心臓に一つ埋め込まれて。
僕が駆け付けたときには、もう遅かった。


 ひとが死ぬのも、最早日常茶飯事だった。
僕にとっても、彼らにとっても、一瞬に命を取られた彼にとっても。
取り立てて騒ぐ必要も、悲しむ必要もない。
そういう危険を承知で、僕も、彼らもそこへ行く。
仕事という建前で、人を助けるという嘘をついて、

 ただ、生きるために。




「どうして、」

 僕の心臓が、血液を送り出すと共に、言を吐き出させた。
妙に早く鼓動する心臓だけを感じた。
もう回復したはずのそれは、何故だかきつく絞められるように、痛かった。

「どうして、……」




 彼女もその一人のように感じられた。
彼女は生まれつき生きづらい体を持っていた。
けれど彼女は、毎日あの方舟で青いこの星を見ていた。
毎日、彼女は笑ったり、怒ったり、悲しんだりしていた。
毎日、彼女は死を背にしながら、生きたいと願っていた。
 そしてその日はやってきた。
生きたいと願った彼女は死んだ。
生きるために、彼女は死を得てしまった。

 彼もきっとそうだった。
死を隣り合わせにして、それでも彼はその場所にいることを選んだ。
毎日、彼は誰かの生を願った。
毎日、誰よりも、己よりも人を愛し、その為に闘いを選んだ。
それは彼自身だった。彼が彼として生きるために生きたのだ。
 そして今日の一瞬を迎えた。
人間の生を願った彼は死んだ。
誰かの生を得るために、彼は死を得てしまったのだ。

 生きるために死を選ぶ。生きるために死を得る。
どれだけ生を願っても、ふとした瞬間に生活に殺される。
これを聞いた人はバカだと言って笑うだろう。
だってそれは、誰もが知っていることだ。余りに些細なことだ。余りにも日常的だ。

 そして、余りにも、それは酷く不条理だ。



「どうして、僕らは生きるために死ななければいけないのだろう」





 彼も僕も、何も言わなかった。
僕の手を包んだ両手を動かそうともせず、ただ、彼は体ごと沈黙した。
言葉を失った様子もない。彼の目線すら感じない。
まるで時が止まったみたいだった。

 部屋はしんと静まり返る。
だが時計の針は変わらずチクタクと音を鳴らして、一瞬一瞬を刻んでいた。
僕の耳の内側では、僕の鼓動の音が響いた。
それは一瞬一瞬を、時計と同じように、僕がここに生きている音を刻んだ。
鬱陶しい。
おまけにそれは内臓まで強く締め付けるから、敵わない。

 僕は胸に空いている片手を当てて、それを握り潰すように、その手をギリと握った。


 この音に、まるで意味なんかないのに。





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